6月12日の「世界なんだコレミステリー」で1985年に殺害された豊田商事会長の永野一男が特集されます。
すでに事件から39年というと年月が過ぎ、「豊田商事事件」といってもピンとこない方も多いのではないでしょうか。
今回は「豊田商事事件」を起こした永野一男について調べてみました。
- 豊田商事事件ってなに?
- 永野一男の生い立ち
- 永野一男はなぜ詐欺師になったのか
豊田商事事件ってなに?
顧客を信頼させるためにテレビCMをうつなどし、一人暮らしの老人宅に入り込んでだまして契約させる手口が大変な問題となりました。
ペーパー商法とは:商品を販売するが現物を渡さず、預かり証等しか交付しない商法。現物まがい商法とも言う。
この事件以後に詐欺的な販売預託商法を規制するために「特定商品等の預託取引契約に関する法律」が制定されています。
事件の詳細は下の記事をご参照下さい
永野一男は、報道陣が集まった前で刺殺されるというショッキングな最期を遂げることになりました。
永野一男を手にかけた犯人たちについては以下の記事が詳しくなっています
永野一男の生い立ち
- 生年月日:1952年8月1日
- 出身地:岐阜県恵那市
- 最終学歴:浜田東中学校(?)
永野一男は岐阜県恵那市で生まれましたが、父親が病弱で障害を持っていたために働くことが難しかったそうです。
農業を営む祖父が存命の間は、その援助で生活していたようですが、祖父が亡くなったことで生活することが難しくなり両親が離婚、母親の実家がある島根県に移住することになりました。
父親が働けないんじゃ金銭的には厳しいよね…
母親が新興宗教に入れ込む
離婚後、永野一男の母親は信仰宗教にのめりこんだようです。
永野一男が15歳の頃には母親が失踪してしまいました。
さらに母親が失踪⁈
叔父に引き取られた後、集団就職
母親の失踪後、永野一男は母方の叔父に引き取られました。
プロフィールの最終学歴の学校名はこの叔父が島根県浜田市国分町に住んでいたことによりますが、母親の失踪時にはすでに15歳になっていたようですので、この学校に本当に通っていたのかは確認できていません
母親の失踪まで他の中学に通っていたなら、わざわざ転校まではしなかったかも…
中学を卒業した後は当時の慣習に従って集団就職で日本電装に就職しました。
集団就職とは:戦後に行われた地方の新規中学校卒業者が都会の店舗や企業に集団で就職する雇用形態。
1977年に廃止された。
ちなみにこの時就職した日本電装は2年で退職しています。
本当に一人ぼっちになっちゃった感じ
永野一男はなぜ詐欺師になったのか
日本電装を退職したのち、永野一男は職を転々とします。
商品取引業者の「岡地」で働いていたころは高い営業成績を上げていましたが、顧客の金を無断で小豆相場につぎ込んで大穴をあけたことが発覚し、解雇されました。
もしかしたらこれが手口を思いついた契機なのかな?
1976年には大垣競馬場で擦りを働いて逮捕されています。
最初に名古屋で「豊田商事」を始めたのは、この逮捕の翌年だよ
罪滅ぼしに宗教団体に献金
永野一男という人物は、自分の行為に対してはっきりとした罪の意識を持っていました。
「顔を知られると殺される」とマスコミを嫌い、社員や役員の前にもほとんど出なかったそうです。
「女房に累が及ぶ」として結婚もせず。生涯独身でした。
永野一男は「罪滅ぼし」として浄土真宗親鸞会に多額の献金を行っていました。
ちなみにこの献金の内、名義が確認できた1億3000万円に関しては、後に豊田商事の破産管財人に返還されています。
社員教育のために浄土宗親鸞会から講師が招かれたこともあったそうです。
詐欺の会社でナニを講演しろと?
最後の所持金は711円
1985年6月18日、「豊田商事会長、今日逮捕」との情報に詰めかけた報道陣の目の前で、永野一男の自宅マンションに二人の男が侵入し、永野一男を刺殺しました。
まだ息がある永野一男を、加害者が引きずり出して報道陣にさらすというショッキングな映像は、テレビや新聞、雑誌にも掲載されました。
当初はランボルギーニ・カウンタックなどのスーパーカーを購入するなど、派手な生活をしていた永野一男でしたが、この頃には会社も自転車操業状態となっており、最期の所持金はわずか711円に過ぎませんでした。
罪とわかって詐欺を働いても、何も残らなかったんだね。
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まとめ
- 永野一男は1985年に刺殺された豊田商事会長。
- 永野一男は金銭的には苦労して育った。
- 永野一男の母親は新興宗教に入れ込んだ挙句に失踪している。
- 永野一男には強い罪の意識があった。
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