同じ年の【虎に翼】ヒロインのモデル三淵嘉子と【ブギウギ】ヒロインのモデル笠置シヅ子の二人の関係が気になります。
朝ドラの主役となった二人の共通点を調べてみました。
- 【虎に翼】三淵嘉子と【ブギウギ】笠置シヅ子の関係
- 三淵嘉子と笠置シヅ子の共通点
- 同じ頃に転機を迎えている
- 三淵嘉子と笠置シヅ子の違うところ
これらのことについてみていきましょう。
【虎に翼】三淵嘉子と【ブギウギ】笠置シヅ子の関係は?
モデルになっている三淵嘉子さんと笠置シヅ子さんの関係が気になりますが、二人に面識があったという事実はないようです。
同じ時代を生きていたわけですが、三淵嘉子さんは歌で笠置シヅ子さんを知っていたと思いますが、笠置シヅ子さんが三淵嘉子さんを知ることはなかったと思われます。
朝ドラ109作目で2023年10月から2024年まで放送の【ブギウギ】と110作目ので2024年4月から放送の【虎に翼】は、ヒロインが同じ年ということで、何かとつながりが感じられるところがあります。
三淵嘉子と笠置シヅ子の共通点
ドラマの猪爪寅子と福来スズ子同様に同じ年である、三淵嘉子さんと笠置シヅ子さんの共通点をみていきましょう。
同じ年・1914年生まれ
この年は五黄の寅と言われ、【虎に翼】のヒロインは寅子(ともこ)と名付けられました。
九星気学の一つ五黄土星は、帝王の星と言われるくらいのパワーで、最強の運気を持つと言われます。
十二支の一つである寅年は、強い正義感と信念で、困難を克服しようとする意志と行動力をもつといいます。
この2つが合う36年に一度の五黄の寅生まれは、非常に強い運勢だと言われ、三淵嘉子さんと笠置シヅ子さんの活躍は当然とも思えます。
ルーツは香川県
三淵嘉子さんの母武藤ノブさんは、幼い頃に父を亡くして裕福だった伯父の養女となり、丸亀藩の御側医の息子貞雄さんが婿養子に入るという形で結婚しています。
笠置シヅ子さんの両親亀井音吉さんとうめさんは、香川県大川郡引田町の出身で、うめさんが出産のために実家に戻っていた時に笠置シヅ子さんを養女としました。
笠置シヅ子さんの実父は名家の跡取りであり、和裁を習うために同居していた母との間に生まれましたが、結婚は反対され、実父は笠置シヅ子さんを認知する前に病気で亡くなってしまいました。
実母は笠置シヅ子さんを連れて実家に戻っていましたが、、笠置シヅ子さんの母うめさんは、母乳の出ない実母の代わりに母乳あげるなどしているうちに情が移り、養女とすることを申し出たといいます。
独断で決めたことでしたが、父音吉も情が移っていったといいます。
双子にしては月齢が違うことで周囲も気がついたかもしれませんね。
その時生まれた男の子は3才で亡くなってしまい、兄も早くに亡くなり、弟と2人姉弟となったので、養女だということに気づく兄弟はいなくなりました。
三淵嘉子も音楽が好き
宝塚のファンで、女学校では演劇の主役を演じることが多く、上級生のアイドル的存在になっていたといます。
ドラマで寅子が梅丸少女歌劇団に入りたいと言ったのもあってるんですね。
体操の時間に創作ダンスを踊ることもあったと言います。
大人になってからも、「りんごのうた」や、ドラマでも歌われている「モンパパ」を宴席等で歌っていたと、ドラマの汐見のモデルと思われる市川四郎さんも話していました。
シングルマザー
シングルマザーという言葉のない時代ですが。
三淵嘉子さんは1941年実家の書生だった和田芳夫さんと結婚し、1943年に長男芳武さんが生まれました。
ドラマでは女の子でしたね。
三淵嘉子さんの夫和田芳夫さんは体が弱くて徴兵を免れていたのですが、戦況が悪化して出征し、戦地で発病し、病院船で戻ったものの、長崎の陸軍病院で亡くなりました。
三淵嘉子さん達が疎開していたためか、連絡が届かずに、会うことはできませんでした。
笠置シヅ子さんは1943年、9歳年下の吉本興業の御曹司吉本穎右さんと恋に落ちましたが、穎右さんの母せいさんに結婚を反対されていました。
笠置シヅ子さんの妊娠がわかり、吉本穎右さんは、生まれた子どもを認知してからじっくり母や親せきを説得しようと考えていて、笠置シヅ子さんも引退の意思を固めていました。
しかし、もともと結核を患っていた吉本穎右さんは、体調を崩し、我が子が生まれる前に亡くなってしまったのです。
吉本穎右さんが亡くなった後に、女の子ヱイ子さんを出産しました。
笠置シヅ子さんの子供についてはこちら⇩
弟が戦死した
三淵嘉子さんには弟が4人いましたが、一番上の弟一郎さんは、乗っていた富山丸が米軍の魚雷で沈没し、1944年戦死しました。
笠置シヅ子さんの弟八郎さんは、1941年12月6日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる2日前に戦死しています。
悲しみに暮れる笠置シヅ子さんのために、服部良一さんは、「大空の弟」とい曲を作りました。
ドラマの中で再現されていました。
同じ年度・1984年度に亡くなった
三淵嘉子さんは1984年5月28日、笠置シヅ子さんは1985年3月30日に亡くなりました。
三淵嘉子さんは骨肉腫、笠置シヅ子さんは乳がんからの卵巣がんで亡くなっています。
1980年代、69歳70歳での死は、早いと感じますね。
三淵嘉子さんの遺言により、遺骨は香川の和田家のお墓にも分骨されています。
同じ頃に転機を迎えている
三淵嘉子さんと笠置シヅ子さんの人生を見ると、同じ頃に転機となる出来事がありました。
24歳(1938年)三淵嘉子高等試験合格・笠置シヅ子上京
現代ビジネス
三淵嘉子さんが高等試験に合格し初の女性弁護士となった時、笠置シヅ子さんが東京に進出し服部良一さんと出会ったのも、1938年のことでした。
33歳(1947年)三淵嘉子司法省勤務・笠置シヅ子東京ブギウギ発表
三淵嘉子さんが司法省に勤務し始めた時、笠置シヅ子さんが東京ブギウギを発表したのは、1947年のことでした。
1946年新憲法により男女平等となったのだから、女性も裁判官になれるだろうと、司法省に裁判官採用願を提出しました。
司法省に嘱託勤務から最高裁事務官を経て、1949年には判事補となり、希望をかなえることができました。
最愛の人を亡くした笠置シヅ子さんを励ましたい思い、戦後の沈んだ人々の活力になるような歌として、服部良一さんが作ったのが東京ブギウギです。
東京ブギウギは大ヒットして人々に元気を与え、笠置シヅ子さんはブギの女王と呼ばれるにいたりました。
36歳(1950年)三淵嘉子アメリカの家庭裁判所視察・笠置シヅ子アメリカ公演
読売新聞オンライン
三淵嘉子さんが約6カ月のアメリカの家庭裁判所の視察、笠置シヅ子さんがハワイ・アメリカに巡業に行ったのが1950年です。
三淵嘉子さんは、1956年に家庭裁判所勤務となった後、少年たちと向き合など、家庭裁判所育ての母と呼ばれました。
三淵嘉子と笠置シヅ子の違うところ
三淵嘉子さんと笠置シヅ子さんの大きく違うところがあります。
家庭環境
三淵嘉子さんは家族に恵まれましたが、笠置シヅ子さんは家族の縁が薄いように感じられます。
三淵嘉子さんの父は、東京帝大卒のエリート銀行員で、三淵嘉子さんはシンガポールで生まれ、シンガポールの漢字表記から一字取って嘉子と名付けられました。
経済的にも恵まれ、深い愛情で育てられ、法律を学ぶことができています。
また、戦後両親は相次いで亡くなりましたが、弟が4人いたこともあり、夫が亡くなってシングルマザーとなっても、子どもの面倒をみてくれる人もいたことは幸福だったと思います。
笠置シヅ子さんは、血縁には恵まれない人生でした。
17歳で養女であることを知りましたが、愛情深く育てくれる養父母には知らないふりをしました。
実母にも会いましたが、実母だとは言いませんでした。
そして、皮肉にも、娘も自分と同じような形で実の父とは全く会うことはできませんでした。
大変でも、自分で育てる道を選んだのはそのためですね。
血縁には恵まれなかったものの、多くの人の助けがあって、娘を育てることができました。
再婚
三淵嘉子さんは41歳の時に50歳の裁判官・三淵乾太郎と再婚しましたが、笠置シヅ子さんは未婚で娘を出産し、生涯独身でした。
三淵嘉子さんの再婚相手についてはこちら⇩
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まとめ
【虎に翼】三淵嘉子と笠置シヅ子、同じ年の二人の関係、共通点を調べました。
- 【虎に翼】三淵嘉子と笠置シヅ子は、朝ドラのモデルになっている同じ年の女性です。
- 三淵嘉子と笠置シヅ子の共通点がありました。
- 1914年、五黄の寅の年に生まれました。
- 両親の出身地・ルーツは香川県です。
- 三淵嘉子さんも宝塚ファンで音楽が好きで、演劇や歌が得意でした。
- 三淵嘉子さんの夫は戦病死、笠置シヅ子さんの婚約者は娘が生まれる前に病死と、二人ともシングルマザーです。
- 二人とも、弟が戦死しています。
- 二人とも1984年度に亡くなっています。
- 同じ頃に転機を迎えていることがあわかりました。
- 24歳(1938年)三淵嘉子高等試験合格・笠置シヅ子上京
- 33歳(1947年)三淵嘉子司法省勤務・笠置シヅ子東京ブギウギ発表1947年
- 36歳(1950年)三淵嘉子アメリカの家庭裁判所視察・笠置シヅ子アメリカ公演1950年
- 三淵嘉子と笠置シヅ子の違うところもあります。
- 三淵嘉子さんは恵まれた家庭だでしたが、笠置シヅ子さんは養女で娘の父も生まれる前に亡くなるなど、家族とも縁の薄さを感じます。
- 三淵嘉子さんは再婚しましたが、笠置シヅ子は生涯独身でした。
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