【光る君へ】第19話から「長徳の変」が始まりました。
疫病での公卿の大量死と、この「長徳の変」が、のちに「この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」とまで歌うほどの権勢を道長が誇る事のきっかけとなりました。
今回はこの「長徳の変」をわかりやすく解説します。
- 長徳の変をわかりやすく解説
- 藤原伊周と花山院は三角関係?
- 長徳の変をわかりやすく解説
- 【長徳の変】中宮定子の懐妊について
長徳の変をわかりやすく解説
出家した天皇である法皇が軽々しく夜歩きをして女性に通った挙句に、女性をめぐる三角関係の相手に矢を射かけられたという、当時としても相当にスキャンダラスな事件でした。
どこまで本当かわかりませんが「矢が法皇の袖を貫いた」とか、「法皇に仕える者2名の首が落とされ持ち去られた」などという記録も残っています。
射かけた方はお兄ちゃんの彼女を法皇が寝取ったと思っていたんだよね
長徳の変の経緯
最初、被害者である花山法皇が被害を認めなかったこともあり、事件が明るみに出て罪が決定されるまでには時間がかかりました。
月日(すべて長徳2年) | 出来事 |
1月16日 | 藤原隆家が花山法皇に矢を射かけた。 |
2月5日 | 伊周、隆家の家宅捜索の勅許が出る |
2月11日 | 伊周、隆家の罪名を明らかにせよという勅命が下る |
4月11日 | 伊周が大元帥法を私に行ったことが奏上される |
4月24日 | 伊周と隆家の降格と左遷が発表される。 |
なぜ花山法皇は被害を認めなかったのか?
花山法皇は藤原道兼に騙されて出家し、位を下りた元天皇です
「光る君へ」の最初の頃に、為時に学問を習いながら扇を足でもてあそぶ姿が話題になっていました。
このひとかあ!
実は花山院はそもそも夜歩きをしてはならない立場です。
天皇や上皇には女性が入内するので夜歩きしない
出家したら女性と関係をもたない
法皇が夜歩きで事件に巻き込まれるというのは、相当に外聞の悪い状況ですので、花山法皇が被害を認めたがらないのは無理のない事でした。
藤原隆家はなぜ花山法皇に矢を射かけたのか
花山法皇と藤原隆家は喧嘩友達でした
当時、法皇や院、女院などの貴人の門前を馬に乗ったまま通るのは不敬として、馬から降りる習慣がありました。
花山法皇が挑発したことから隆家は派手に着飾って馬に乗り、下人の一団と花山院の門前を通り抜けようとしたことがあります。、
阻止しようとする花山法皇側の下人との間で大騒動となったそうです。
法皇も隆家も荒っぽい下人を多く雇ってると有名だったよ
【光る君へ】では花山法皇とは気づかずに矢を射かけていましたが、わかっていたのではないかという話もあります。
藤原隆家としては軽い気持ちで矢を射かけたのかもしれません
藤原道長の下人と隆家の下人が集団で乱闘となり、藤原実資が「合戦があった」と日記に記すような騒ぎになったこともありました。
藤原隆家は公家としては荒っぽい気性の人物だったようです
結局、藤原伊周はどうなったのか
藤原伊周は大宰権帥に降格され、大宰府(九州)に左遷されましたが、結局は播磨国にとどめ置かれました
花山法皇に矢を射かけさせたというだけでなく、「大元帥法(だいげんのほう)」という勅許がなくては行うことが出来ない修法を行わせたという罪もあり、伊周をはじめとする故藤原道隆に連なる一族は、多くが左遷や降格の憂き目にあいました。
大元帥法:真言密教の大法の1つ。鎮護国家、敵軍降伏の法であるため天皇以外は勅許がなくては行えない。
花山法皇に矢を射かけた隆家は出雲権守として出雲に左遷されていますが、こちらは但馬国にとどめ置かれています。
大宰権帥として大宰府へ左遷されるのは、当時の政変の敗者としては既定のコースでした。
時代は違うけど菅原道真も大宰府に左遷されたよね
このように中央の公卿が地方に左遷されることは、実質は流罪と受け止められていました。
最大の政治的ライバルである伊周が脱落したことは、藤原道長の政権を安定させました
藤原伊周と花山院は三角関係?
姉妹は女御藤原忯子の異母妹たちだった
故藤原為光と言えば花山法皇の出家のきっかけとなった女御藤原忯子の父親です
【光る君へ】では、登場時に手首を縛られて話題になっていた女御です。
父である藤原為光は既に亡くなっていましたので、しっかりした保護者のいない状況でした。
藤原伊周の相手は評判の美女
藤原為光の娘たちはみな美しいと評判でしたが、すでに故人となった次女である女御忯子以外では、「寝殿の上」と呼ばれた三の君が絶世の美女と言われていました。
【光る君へ】では藤原光子という役名で竹内夢さんが演じているのが「寝殿の上」です。
この「寝殿の上」に通っていたのが藤原伊周です。
なまじ「絶世の美女」との評判が高い女性だったので、同じ邸に通う男がいるとなると「寝殿の上を狙っているに違いない」とか「寝殿の上を寝取られた」とか思い込んでしまったのでしょうか
出家している花山法皇ですが、この頃「女性に手が早い」ことで有名でした。
母子の女房の両方に子供を産ませたというのは、この頃のエピソードのようです。
【長徳の変】中宮定子の懐妊について
藤原伊周、隆家兄弟の左遷が決まった時にはすでに妊娠しており、伊周が住む二条北宮に里下がりしていました。
内裏でお産はしない決まりだったので、懐妊したら里下がりすることになってたよ
もっとも、懐妊をどの時点で発表するかは状況にもよりますので、いつ明らかになったのかまではわかりません。
伊周兄弟の左遷が決まった時には父親である一条天皇も懐妊を知らなかった可能性もあります。
左遷が決まってから、実際に実行されるまで、伊周は逃げ回りました。
- 4月24日:左遷発表 重病と称して出立を拒む
- 5月1日:中宮御所(二条北宮)捜索
隆家が左遷先に出発する
伊周は逃亡
定子中宮落飾? - 5月3日:僧形で帰邸
- 数日後:母高階貴子を伴い左遷先に出発。
母の同行は許されず - 伊周は播磨、隆家は但馬に左遷先が変更
最初は中宮を盾にして邸から出ず、邸から逃亡したのちは出家することで、罪から逃れようとしたようです。
この5月1日の中宮御所の捜索の折に、定子中宮は自ら鋏をとり、髪を下したという話も伝えられています。
その後も入内しているので、髪を下ろしてまではしていないという話もあるよ
髪を下す(落飾)すると出家したとみなされるので、異性と性的関係を持つことはできない
左遷先にも母の貴子が同行しようとしましたが許されず、京に戻った貴子はこの年の10月に定子中宮の出産を待たずに亡くなっています。
6月8日には伊周の邸であり、定子中宮の御所でもあった二条北宮が全焼、身重の中宮は近侍の男たちに抱えられて母方の伯父である高階明順の邸に難を逃れました。
御子が生まれたら許されるって思って、それまで逃げ切ろうとしたのかな
貴子の死の直前にも伊周は母に会うために帰京しますが、すぐに播磨に送り返されています。
まとめ
- 「長徳の変」は長徳2年に起きた政変
- 「長徳の変」は藤原隆家の花山法皇襲撃事件から始まった
- 「長徳の変」のきっかけは三角関係の誤解
- 中宮定子は「長徳の変」の直後に第1子を出産
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