【虎に翼】岡田将生さんが演じる星航一のモデルは、初代最高裁判所長官三淵忠彦の長男三淵乾太郎(みぶちけんたろう)です。
三淵忠彦がモデルとなった星朋彦もドラマに登場しています。
- 【虎に翼】星航一のモデルは三淵乾太郎
- 三淵乾太郎は初代最高裁判所長官三淵忠彦の長男
- 三淵乾太郎の経歴
- 寅子のモデル三淵嘉子と再婚
これらをみていきましょう。
【虎に翼】星航一のモデルは三淵乾太郎
星航一は、最高裁判所長官星朋彦の息子で、7月からドラマに登場すると思われます。
三淵乾太郎は初代最高裁判所長官三淵忠彦の長男
三淵忠彦さんは、1880年岡山県で生まれましたはが、父は元会津藩士でした。
京都帝国大学法科卒業後判事となりましたが、45歳で退官して、弁護士として三井信託株式会社の法律顧問となっています。
裁判官をやめたのは、当時は裁判官の報酬が低かったため、その経済的な理由のためはないかと、三淵乾太郎さんが後で推察しています。
新憲法により最高裁判所が設立されるにあたって、最高裁判所の初代長官に、67歳5カ月という、現在までの最高齢で就任しました。
当時三淵忠彦さんの仕事を手伝っていたという三淵嘉子さんですが、2人を会わせたのは、ドラマの穂高教授のモデルとなった穂積高遠さんだということです。
1948年10月以降病気で長期に休むこともありました。
1950年3月2日の70歳の定年退官は病室だったといいます。
1959年7月14日に病気で亡くなりました。
三淵乾太郎の経歴
1906年12月3日三淵忠彦さんの長男として生まれました。
1930年に高等文官試験司法科に合格、1931年東京帝国大学法学部卒業をして、司法省に入省しました。
1932年東京地方裁判所予審判事、1935年東京民事地方裁判所判事になりました。
1942年には司法事務官となり、1944年には領事として中国の北京に行きました。
戦後は、高等裁判所裁判官・最高裁判所調査官に着任しました。
甲府地方裁判所所長、浦和地方裁判所所長なども務めています。
弟は会津の萱野家を継いで千代田生命社長となった萱野章次郎、大東京火災海上保険常務の三淵震三郎がいます。
妻を見送った後翌年1985年に亡くなっています。
寅子のモデル三淵嘉子と再婚
1950年、三淵嘉子さんがアメリカの家庭裁判所視察に出ている間に亡くなった三淵忠彦さんの弔問に、自宅を訪れた時に、三淵乾太郎さんと三淵嘉子さんは出会っています。
三淵忠彦さんの妻で、三淵乾太郎さんの母が三淵嘉子さんを気に入っていたというのも、この時の印象がよかったのかもしれません。
とはいってもこの時は、三淵乾太郎さんの前妻は存命中でしたので、特に何もなく、1956年の三淵嘉子さんが名古屋地裁にいた際に知人の紹介で出会いました。
この紹介した知人というのが、ライアンのモデルとなった内藤頼博さんではないかと言われています。
前年1955年に前妻が亡くなっていて、再婚を勧めていたのだと思われます。
三淵乾太郎さんには、前妻との間に4人の子供がいて、1番上の長女はすでに結婚していました。
三淵乾太郎さん自身も、子どもの頃に母が亡くなって、父の再婚という経験をしていました。
複雑な子ども心理もわかっていながらの再婚だったようです。
幸せだったということですね。
三淵嘉子さんの連れ子、前夫和田芳夫さんとの間に生まれた和田芳武さんと、三淵乾太郎さんは仲が良かったそうですが、和田芳武さんは和田の姓を名乗り続けました。
和田の姓を残したいという思いがあったのでしょう。
三淵嘉子さんは気が強く、子ども達とぶつかることもあったようですが、それだけ、言いたいことを言える関係だったのかと思います。
再婚相手についてはこちら⇩
関連記事
まとめ
【虎に翼】星航一のモデルで、初代最高裁長官の長男三淵乾太郎について調べました。
- 【虎に翼】星航一のモデルは裁判官の三淵乾太郎さんです。
- 三淵乾太郎は初代最高裁判所長官三淵忠彦の長男です。
- 三淵乾太郎さんは、東京帝大法学部卒で、東京地方裁判所予審判事、東京民事地方裁判所判事、戦時中には北京領事も務めました。
- 戦後は、高等裁判所裁判官、最高裁判所調査官、甲府地方裁判所所長、浦和地方裁判所所長などを歴任しました。
- 寅子のモデルとなった三淵嘉子さんと、1956年に再婚しました。
コメント