朝ドラ【虎に翼】でヒロイン猪爪寅子を法律の世界に導いた穂高重親教授のモデルは、穂積重遠さんです。
ドラマのモデル三淵嘉子さんとの関係、経歴等を調べました。
「近代日本経済の父」と呼ばれ、大河ドラマの主役にもなった渋沢栄一ともつながりがあることがわかりました。
この記事でわかること
- 【虎に翼】穂高重親教授のモデル穂積重遠は渋沢栄一の子孫
- 穂積重遠の経歴
- 【虎に翼】モデル三淵嘉子との関係
- 明治大学女子部創設の経緯
このことについて、みていきましょう。
目次
【虎に翼】穂高重親教授のモデル穂積重遠は渋沢栄一の子孫
穂積重遠さんは、渋沢栄一の孫にあたります。
穂積重遠さんの母は渋沢栄一の娘歌子で、渋沢栄一の初孫でした。
ドラマでは、小林薫さんが演じていますが、小林薫さんは大河ドラマ「晴天を衝け」で渋沢栄一の父を演じています。
父親の穂積陳重さんは法学者で、東京帝国大学法学部教授、中央大学創立者の1人です。
父親と同じ法学者の道を進んだのですね。
妻は、軍人である児玉源太郎の娘です。
穂積重遠は、結婚式当日に、式に行く途中、忙しい中で婚姻届を提出して、周りを驚かせました。
当時は、妻が妊娠してから届を出すことが多かったといいます。
家が大事だから、子どもを産んでこそ嫁だということなのでしょうか。
さすが、法律家ですね。
長男穂積重行は西洋史学者、長女岩佐美佐子は国文学者、二女和歌子の夫は土木工学者と学者一家のようです。
穂積重遠の経歴は?
穂積重遠は、民法が専門の法学者で、東京帝国大学教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任し、「日本家族法の父」と呼ばれています。
1883年4月11日、東京に生まれました。
出身学校
- 東京師範学校付属小学校(現筑波大付属小)
- 同付属中学校(現筑波大付属中高)
- 一高(東大教養学部・千葉大医学部薬学部の前身)独法科
- 東京帝国大学(現東大)法科
当時の超エリートコースを進んでいて、一高独法科には主席での入学でした。
1908年、東京帝大卒業と同時に東京帝大講師となりました。
1910年に助教授となり、1912年から留学し、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカに滞在し、1916年2月に帰国し、帰国後は教授、1917年法学博士となりました。
民法の研究に専念し、日本家族法の父と呼ばれました。
1944年貴族院議員となりましたが、1945年8月の終戦時の東宮侍従長を務めていました。
1949年最高裁判所判事となりましたが、1951年7月29日病気により、68歳で亡くなっています。
主に民法の研究、制定を担当していて、離婚制度の研究や、児童虐待防止法の制定等、現代にも通じる研究をしていました。
平塚らいてう、高群逸枝などの女性解放運動家の支援も行い、弁護士法の改正で性別の条件をなくしました。
女性の権利向上する運動に好意的だったことから、女好きと皮肉られることもあったといいます。
同時期に留学していた三浦環のオペラに魅せられていて、戦後は歌舞伎と観劇も趣味の一つで、学生時代は、水泳、柔道、山登りも趣味としていました。
和歌や、川柳、フランス語など、多くのものに興味を持っていました。
酒も飲まず、タバコも吸わなかったということですが、お酒の席には、にこやかに参加していたそうです。
【虎に翼】モデル三淵嘉子との関係は?
三淵嘉子さんが入学した明治大学女子部の創設者で、これは、ドラマと同じですね。
ドラマでは、寅子を法律の世界に導いただけでなく、なんと父直言の大学時代の恩師であり、父と母の結婚にも関わっていました。
寅子の父も明律大の法学部なのかと思ったら、父は東京帝大の出身でした。
共亜事件で逮捕された時の新聞に載っています。
穂高教授は、その当時は東京帝大で教えていたということですね。
ドラマのお父さんは、モデルの三淵嘉子さんの父と同様に、シンガポール、ニューヨークで海外勤務も経験した。エリートサラリーマンでしてね・
実際の三淵嘉子さんの父は東京帝国大学の法学部出身で、穂積重遠さんも東京帝国大学の出身で教員でしたから、ありえない話ではないのかなと思ったら、年齢がドラマと大きく違っていました。
ドラマの穂高重親は、小林薫さん演じる法学の権威で重鎮のようですが、当時の穂積重遠さんは48歳ぐらいとのことですから、三淵嘉子さんの父に教えることはなかったのでしょう。
明治大学女子部創設の経緯
弁護士法の改正で性別の条件がなくなることを見越して、横田秀雄(開設当時の明治大学長)、松本重敏(女子部長)、穂積重遠(女子部委員)が設立したのが、明治大学専門部女子部法科です。
1927年に教授会で設置案が提出され1928年4月に文部省から認可がおりましたが、異論があり実際の開校は1929年になりました。
明治大学女子部開校式では、民法改正審議に加えられる婦人法律家が我国にはいないことを私は非常に遺憾に思うと話しています。
穂積重遠は、民法は家族や女性達に大きな影響を与えるのに、その改正に女性を参加をさせないのはおかしいと、女性の法律家をつくるべきだと考えていたのです。
穂積重遠は教授として、授業も行っていましたので、三淵嘉子さんも授業を受けていたと思われます。
背中を丸めて足早に歩く姿から、穂積重遠は、女子学生にイノシシというあだ名をつけられていました。
明治大学専門部女子部法科は3年制で、明治大学法学部に編入することができました。
女学校からすぐに大学に入れないのは、女学校の授業内容では学力が足りないからなのでしょうか。
大学生になって、弁護士になれる高等試験司法科を受けることができます。
時代を先取りしていたため、定員に対して応募者は少なくて、1940年に廃止の話も出たといいます。
しかし、その1940年に久米愛、三淵嘉子、中田正子が日本初の女性弁護士になるという快挙がありました。
その翌年からは入学者が増えて、女子法曹界の先駆者としての役割をになっていました。
戦後の学制改革により、明治大学短期大学となりましたが、2003年の学生募集を最後に廃止されています。
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まとめ
朝ドラ【虎に翼】穂高重親教授のモデルは穂積重遠の経歴と三淵嘉子や渋沢栄一との関係についてまとめました。
- 【虎に翼】穂高重親教授のモデルの穂積重遠は渋沢栄一の孫です。
- 穂積重遠は、東京帝国大学卒からすぐ教員となり、長い欧米への留学を経て、教授、東宮侍従長、最高裁判所裁判k官などを務めました。
- 【虎に翼】モデル三淵嘉子にも女子部で教えていたと思われます。
- 明治大学女子部創設のメンバーで、開校後は授業も受け持っていました。
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