【虎に翼】寅子の上司となる、滝藤賢一さん演じる多岐川幸四郎は、ちょっと変わり者で笑いを誘う、裁判官編のキーパーソンです。
多岐川幸四郎のモデルは、家庭裁判所設立の立役者であり、家庭裁判所の父と呼ばれた宇田川潤四郎さんです。
宇田川潤四郎とは、どんな人なのか調べてみました。
- 多岐川幸四郎のモデルは宇田川潤四郎
- 宇田川潤四郎の経歴
- 宇田川潤四郎の孫は少年非行の研究者
- 宇田川潤四郎と家庭裁判所の関係
- 宇田川潤四郎と学生ボランティアの関係
- 虎に翼の多岐川幸四郎と宇田川潤四郎の違い
これらについてみていきましょう。
多岐川幸四郎のモデルは宇田川潤四郎
家庭裁判所の設立に邁進した、ユニークで温かい人です。
宇田川潤四郎の経歴
- 生年:1907年
- 出身地:東京
- 出身校:早稲田大学法学部
1968年の早稲田大学校友会に「早稲田とわたくし」という文章を寄せています。
1929年に、早稲田大学法学部を卒業しました。
早稲田出身者は天衣無縫な活動家が多く、型にはまらないところがよい点で悪い点でもあるが、それが早稲田の良さで自分も誇りに思っていると書いています。
戦前は関西で裁判官として働いていて、戦時中は、司法官僚として満州にわたりました。
満州の新京高等法院の審判官(裁判官)兼新京地方法院審判官を務め、またその後は、司法部職員訓練所で中央司法職員訓練所教官も務めていたといいます。
戦後、着の身着のまま家族と日本に帰ってきました。
上野駅で、道端にあふれた戦災孤児、どの子もやせ細って表情が無く、ひったくりをしてい子もいる光景にショックを受けたといいます。
亡くなった親たちは、不良になって欲しいとは思っていないはずだと気づき、「よその子を救うことで、自分の子どもの将来も実る」と考え、少年の更生に尽くすようになりました。
1946年に大阪地方裁判所の裁判官に就任し、その後に京都少年審判所の所長を務めます。
宇田川潤四郎さんは、少年保護施設の設立を目指し、自分で敷地を探すなど、積極的に行動し、宇治少年院を開設しました。
宇田川潤四郎さんは、人を惹きつけるような演説が得意でしたが、法律議論は苦手で、議論になると寝てしまっていたそうです。
ドラマの多岐川幸四郎も、少年審判所と家事裁判所の話し合いの時居眠りしていましたね。
宇田川潤四郎の孫は少年非行の研究者
宇田川潤四郎さんの孫の宇田川淑恵さんは、東京大学特任研究員で、少年非行と世論の関係を研究しています。
2004年、青山学院大学国際政治経済学部国際経営学科国際コミュニケーションコース を卒業後、セントラルミズーリ大学社会学部修士課程、クレアモント大学院カルチュラルスタディーズ専攻 博士課程修了しました。
祖父の宇田川潤四郎さんの著書「家裁の窓から」を、「守らなければならない子がいる」という信念が伝わってくると大事にしています。
宇田川淑恵さんの父、宇田川幸四郎さんの息子は、少年院の教官でした。
宇田川潤四郎さんの思いは、息子と孫に受け継がれています。
宇田川潤四郎と家庭裁判所の関係
もともとあった家事裁判所と少年審判所を合わせた家庭裁判所を作るように、戦後、GHQから指示されたのでした。
京都少年審判所でのバイタリティーいっぱいの人柄と、リーダーシップが認められ、家庭裁判所の運営に奔走することになったのです。
宇田川潤四郎さんは、家庭裁判所ができた1949年1月1日に最高裁判所家庭局長になったのです。
この時、虎に翼のライアンこと久藤頼安のモデルとなった内藤頼博さんを頼りにしました。
内藤頼博さんは、アメリカの家庭裁判所を視察していたからです。
調査官制度を作り、学者を含めての研究会の開催するなど、家庭裁判所の運営の様々な施策を進め、「家庭に光を少年に愛を」という標語をつくり、しばらくの間、家庭局長室に飾っていました。
調査官を集めるために新聞広告を出し、満州からの引揚者を多く雇っていたといいます。
宇田川潤四郎さんは、世間の人に家庭裁判所を知ってもらうため、ラジオ番組にも出演しました。
朝ドラ「花子とアン」のヒロインのモデルである村岡花子さんのラジオに出演したのです。
家庭裁判所は愛の裁判所、家庭の病院で、とにかく家庭の問題はすべて自分たちで引き取るんだという強い思いがありました。
関係機関と連携を図って、積極的にいろいろな人が交わるように、家庭裁判所の人たちは目指していたのです。
そのために、みな、外に出ることを宇田川潤四郎さんは奨励していました。
詳しいことは見つからなかったのですが、ドラマに出てきたピンピン体操は、実際にあったということです。
宇田川潤四郎と学生ボランティアの関係
宇田川潤四郎さんは、行くあてがなくて非行に走ってしまう子ども達の相談にのって、非行防止の指導、いあわゆる保護観察やケアを学生たちに依頼したのです。
こうして始まった「BBS(Big Brother and Sister Movement)運動」、ドラマにでは、寅子の弟の直明が大学の仲間と行っていて、寅子に熱く話していましたね。。
もともとはアメリカで行われた運動で、今も全国にある団体です。
宇田川潤四郎さんは、このBBSの活動資金のため、京都の南座から芸能人を呼んでチャリティー公演を行ってお金を集めました。
型破りな人だということがわかるエピソードです。
虎に翼の多岐川幸四郎と宇田川潤四郎の違い
ドラマだから、ということなのでしょう。
ドラマの多岐川幸四郎はライアンがつけたであろうニックネーム・タッキーと呼ばれていますが、宇田川潤四郎さんがニックネームで呼ばれていたという話はありません。
ライアンのモデルの内藤頼博さん自身はライハクと呼ばれていましたが、他の人にニックネームをつけることはありませんでした。
虎に翼では、多岐川幸四郎が凶悪事件から逃げていた自分を責めていた過去の話がありますが、実際このような話があったのかはわかりません。
また、細かに家庭裁判所ができるまでの過程が描かれていますが、このあたりのことについては、オリジナルの部分が多いと思われます。
ドラマの多岐川幸四郎は独身といっていましたが、宇田川潤四郎さんは奥さんと子どもが3人いました。
ドラマでは戦時中朝鮮にいて、戦後、汐見と香子と日本に戻ってきていますが、宇田川潤四郎さんは満州で働いていました。
学生達に法律を教えていたのはドラマと同じで、その学生たちのおかげで、日本に戻ってきたのでした。
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まとめ
【虎に翼】多岐川幸四郎のモデル、家庭裁判所設立の立役者である宇田川潤四郎について調べました。
- 多岐川幸四郎のモデルは宇田川潤四郎さんです。
- 宇田川潤四郎さんは1907年東京生まれで、早稲田大学卒業後、主に関西で裁判官をしていました。
- 人を惹きつけるような演説が得意ですが、法律議論は苦手で、議論が始まると居眠りしていたといいます。
- 戦時中は満州にわたり、戦後着の身着のまま家族で帰国しました。
- 上野駅であふれる戦災孤児たちを見て、子ども達の幸せのための働こうと思うのでした。
- 宇田川潤四郎の孫の宇田川淑恵さんは、東大特任研究員で、少年非行についての研究をしています。
- 宇田川潤四郎さんは家庭裁判所の設立の立役者で、家庭裁判所の父と呼ばれています。
- 宇田川潤四郎さんは、戦災孤児を助ける学生ボランティアBBSの設立を促し、チャリティー公演を行って活動資金を集めました。
- 虎に翼の多岐川幸四郎のようにニックネームでは呼ばれていなかったようです。
- 多岐川幸四郎さんが凶悪事件から逃げていたという話が描かれますが、オリジナルなエピソードと思われます。
- ドラマの多岐川幸四郎は独身ですが、宇田川潤四郎さんは結婚していて子どもが3人いました。
- ドラマでは戦時中朝鮮にいましたが、宇田川潤四郎さんは満州にいました。
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