2024年4月の朝ドラ、伊藤沙莉さんヒロインの【虎に翼】は、日本初の女性弁護士となった猪爪寅子の人生を描いています。
女性は家庭に入ることが当たり前の時代に、法律を学ぶことを選んだ猪爪寅子を描く虎に翼は、実在の人物であり、日本初の女性弁護士となった三淵嘉子さんをモデルとしています。
三淵嘉子さんは、女性初の弁護士であるだけでなく、女性初の判事、女性初の裁判所長でもあります。
虎に翼は、エンターテイメントとして再構成するということで、フィクション部分が多くなっています。
虎に翼とは少し違う、モデルとなった三淵嘉子さんの人生を調べてみました。
- 【虎に翼】猪爪寅子のモデルは三淵嘉子
- 三淵嘉子の弁護士までの経歴
- 生まれはシンガポール
- 法律を志して明治大学へ
- 女性初の弁護士へ
- 弁護士から裁判官へ
- 家庭裁判所への思い
- 退官後は?
- 結婚から死別し再婚していた
これらについて解説していきます。
【虎に翼】猪爪寅子のモデルは三淵嘉子
タイトルの「虎に翼」は、中国の法家・韓非子の言葉で、「鬼に金棒」と同じような「強い上にもさらに強さが加わる」という意味があります。
モデルの三淵嘉子さんは五黄の寅年生まれで、「トラママ」呼ばれていたというエピソードから、ヒロインの名前は寅子(ともこ)で、あだ名は「トラコ」となりました。
法律という翼を持って羽ばたく寅子が、とまどったり悩んだりしながら、弱い人達のために自分の翼を正しく使えるよう、一歩ずつ成長していく姿をイメージしてつけられたタイトルです。
三淵嘉子の弁護士までの経歴
三淵嘉子(みぶちよしこ)さんが、日本初の女性弁護士となるまでを、出生から見ていきましょう。
生まれはシンガポール
三淵嘉子さんは、1914年(大正3年)11月13日、台湾銀行に勤める武藤貞雄さんの長女としてシンガポールで生まれました。
シンガポールを漢字で新嘉坡と表記することもあることから、嘉子と名付けられたということです。
その後、父はニューヨークに単身で勤務し、日本に戻ってからはともに渋谷区で暮らしました。
三淵嘉子さんには4人の弟がいますが、一番下の弟武藤泰夫さんによると、一番優秀だったのが姉三淵康子さんだと言います。
勉強も運動もできて、頭に回転も速い、頼りになる人で、両親は「男の子だったよかったのに」と言っていたそうです。
三淵嘉子さんは、現在のお茶の水女子大学付属高等学校の前身であった東京女子師範学校附属高等女学校に、20倍を超える倍率の中、入学しました。
同級生の話では、理知的で正義感の強い努力型で、歌も絵も上手、感情豊かで喜怒哀楽のはっきりした人気者でした。
父は外国での生活が長かったせいか、男女分け隔てのない考えの持ち主でした。
三淵嘉子さんは父に、普通のお嫁さんになるのではなく、男性と同じように政治も経済も理解して、専門の仕事に就けるような勉強をすすめ、医者か弁護士がいいのではないかと言われていました。
当時でいうと、一般的な良妻賢母ではなく、職業婦人を目指せと言うことです。
その言われて育った三淵嘉子さんは、高等女学校を卒業後、法律を学ぼうと考えました。
父親の武藤貞雄さんの生家は代々医者の家でした。
そんなことから父の口から医者という言葉も出たのかもしれませんが、三淵嘉子さんは血を見るのが怖かったから法律に進んだと後から話しています。
ドラマと大きく違う点ですね。
最初から職業婦人を目指すという考えではなかったのに、流れに任せて結婚することに疑問を持ち、法律と出会って、学びたいと思うようになるという、見ていてワクワクするストーリーは、普通のお嬢さんだからこそ生まれるものですね。
法律を志して明治大学へ
1929年に三淵嘉子さんが法律を学ぼうと入学したのは明治大学専門部女子部法科(通称女子部)で、当時、唯一女性が法律を学べる学校だったといいます。
しかし、母親は、嫁の貰い手がなくなると泣き崩れたという話も残っています。
嫁の貰い手がなくなる‥ものすごく久しぶりに聞いた気がする
このあたりの母親が帰っている間に進学を決めてしまったところは、ドラマと同じです。
1933年の弁護士法の改正で、弁護士資格の「日本臣民ニシテ・・・成年以上ノ男子タルコト」(第2条第一)が「帝国臣民ニシテ成年者タルコト」となり、女性にも弁護士になる道が開いたのでした。
女子部を卒業後、明治大学の法学部に編入した三淵嘉子さんは、1938年に卒業、卒業式では総代を務めました。
女性初の弁護士へ
大学を卒業と同じ年、三淵嘉子さんと2人が高等文官試験司法科に女性初の合格となりました。
しかし、この時はまだ、裁判官や検事には女性はなれませんでした。
官吏(公務員)に女性はいませんでした。
自分は裁判官に向いていると考えていた三淵嘉子さんは、試験会場でポスターを見て愕然としたそうです。
合格を伝える新聞のインタビューには、男女差別のある時代に配慮して、男性に負けないようにというような言葉はなくて、謙虚に、女性のための弁護士、不幸な人々の相談相手をめざすというを強調したコメントを残しています。
修習期間を経て、1940年6月に弁護士登録をして、ついに女性初の弁護士になりました。
しかし、1941年に太平洋戦争に突入したため民事事件の数は減少し、弁護士としての活動はほとんどできなくなりました。
三淵嘉子さんさんは、母校女子部法科の助手から助教授となって、後進の指導に当たっていました。
弁護士から裁判官へ
戦後、三淵嘉子さんは裁判官採用願を司法省に提出しました。
1話で桂場統一郎さんに会いに行ったのは、まさにこの時ですね。
裁判官としての採用はなかったものの、裁判官の仕事を学ぶため司法省に入り、民法調査室で民法・家事審判法の立法作業、最高裁発足後は、事務局民事部第三課で親族法・相続法・家事審判所の問題などに携わっていました。
新しい民法の男女平等に触れたら、女性に厳しい自覚と責任が求められ、日本の女性がそれにこたえられるのだろうかと思ったと話しています。
1949年に東京地裁民事部の判事補に任用され、日本で2番目の女性裁判官になりました。
同時に母校の講師も兼任しています。
広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当し、1963年12月7日の判決は請求棄却しましたが、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言しました。
弁護士から裁判官への経歴等、詳しくはこちらです。↓↓
家庭裁判所への思い
三淵嘉子さんは、家庭裁判所が設置された1949年、約6カ月間アメリカの家庭裁判所を視察し、家庭裁判所設置にも関わりました。
三淵嘉子さんは「家庭裁判所の育ての母」と呼ばれています。
三淵嘉子さんは、計5000人超の少年少女と向き合ったといいます。
家庭裁判所長となってからは、家庭に深刻な悩みを持つ人達の心を少しでも和ませたいという心遣いから、調停室の壁を明るい色に変え、壁には絵をかけて、カーテンも新しくし、昼休みの廊下には静かな音楽を流していました。
少年事件やその他の家事事件について、一般社会の方に関心を持ってもらうため、各地に講演に出かけていたのです。
特に少年問題については、家庭裁判所にいく前に、家庭や社会が理解をもって協力することが大事だと考えていました。
三淵嘉子さんは、「家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない」「家裁の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある」という信念を持っていたといいます。
退官後は?
1979年に退官し、1980年にふたたび弁護士となり、日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務めました。
男女雇用機会均等法の基礎を作っていてたのでした。
1983年頃から体調を崩し、1959年5月に69歳で亡くなりました。
転移性の骨がんでしたが、最後は肺炎をおこしていました。
退官からわずか4年、ゆっくり老後を楽しむことはなかったのですね。
青山葬儀所で行われた告別式には2000人近くが参列したといいます。
三淵家の墓所と、香川県丸亀市の最初の夫和田家の墓に、分骨されているそうです。
結婚から死別し再婚していた
1941年に27歳で、父の書生をしていた和田芳夫さんと結婚し一男を設けましたが、夫は戦病死しました。
キャリアを止めることなく一人息子を育てていましたが、41歳で最高裁調査官の三淵乾太郎と再婚しました。
三淵乾太郎さんには病死した前妻との間に子どもが4人いて、自身の子どもと合わせて5人の母親になったのです。
外では緊張している三淵嘉子さんですが、家庭では安心して自分をさらけ出していたらしいという、人間らしい一面も語り継がれています。
家族について、詳しくはこちらです。↓↓
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まとめ
【虎に翼】の猪爪寅子のモデルは三淵嘉子の弁護士人生を調べました。
- 朝ドラ【虎に翼】のヒロイン猪爪寅子のモデルは日本初の女性弁護士となった三淵嘉子さんです。
- 三淵嘉子さんはシンガポール生まれで、父の「普通のお嫁さんでなく専門の職に就けるような勉強をしたら」という言葉に従い、法律の勉強をすることを決めました。
- 明治大学専門部女子部法科から明治大学法学部に編入し、日本初の女性弁護士となりました。
- 戦後は、司法省勤務から裁判官となり、女性初の家庭裁判所長、家庭裁判所の母とも呼ばれました。
- 父の書生だった和田芳夫さんと27歳で結婚しましたが夫は戦病死し、1人で一人息子を育てていましたが、41歳で4人の子持ちの最高裁調査官三淵乾太郎さんと再婚しました。