朝ドラ【虎に翼】ヒロインのモデル三淵嘉子さんは明治大学の出身です。
弁護士を目指すことになったきっかけ、日本初の女性弁護士になるまでの経緯や、弁護士になってからどのような活躍をしたのか調べました。
- 三淵嘉子が弁護士を目指したきっかけ
- 明治大学専門部女子部法科ができた背景
- 三淵嘉子明治大学法学部までの道
- 三淵嘉子が日本初の女性弁護士となった経緯
- 三淵嘉子が弁護士から裁判官となった理由
- 三淵嘉子が家庭裁判所の母と呼ばれたのはなぜか
- 三淵嘉子退官後は何をしたか
これらについて、徹底解説していきます。。
三淵嘉子が弁護士を目指したきっかけは?
三淵嘉子さんの父は、その当時では珍しく進歩的な考えの持ち主で、いわゆる良妻賢母ではなく、職業婦人として自立して欲しいと思っていました。
父は台湾銀行勤務で、シンガポールやニューヨークなどの海外勤務もあり、三淵嘉子さんはシンガポールで生まれています。
父は外国での生活もあり、日本の価値観とは違った考えになっていったのですね。
東京府青山師範学校附属小学校から、東京女子師範学校附属高等女学校(今のお茶の水女子大学付属高等学校)を卒業後、法律を学ぶ決意をしました。
血が怖いから医者は無理と思ったみたいですね
入学準備のために担任の先生に卒業証明書を貰いに行った時に、担任の先生は驚いて、止めたといいます。
お嫁の貰い手がなくなると言って止める先生に、父の了解を受けているからと言って、卒業証明書をもらって帰宅しました。
そして、ドラマと同じように母が実家に戻っていた間のことで、母も「これで嫁に行けなくなった」と泣き出したといいます。
嫁の貰い手がない‥久しぶりに聞いた言葉です。
明治大学専門部女子部法科ができた背景
明治大学が女子の法律を学ぶ機関を作ろうとしたのは、ドラマに登場している穂高重親教授のモデルとなった穂積重遠東京帝大教授と、弁護士の松本繁敏さんの存在からです。
穂積重遠さんは、家族法の父と呼ばれ、ドラマの穂高重親教授と同じように女性の地位の向上や権利を守ることに理解がありました。
松本繁敏さんは明治大学出身の弁護士で、2人は弁護士法改正の委員でした。
この2人の提案で明治大学専門部女子部法科ができて、女性も法律を学び、司法科試験を受けることができるようになったのです。
2人は裁判官経験者などの実務経験者の教授陣を集め、現場で活躍できる人材を育てようとしました。
三淵嘉子明治大学法学部までの道
1933年5月、弁護士法改正が改正され、弁護士資格については、それまで男性だけだったのが、女性も弁護士となることが認められるようになりました。
弁護士になるには、高等試験令の司法科試験に合格した後、1年半の弁護士試補としての修習が必要でした。
弁護士法改正を見すえて1929年にできた明治大学専門部女子部法科(3年制)が、唯一、明治大学法学部への編入を認めている、女性が法律を学び弁護士を目指すことができる学校だったのです。
三淵嘉子さんは、4期生として明治大学専門部女子部法科(通称女子部)に入学しました。
女子部には当時、紺色のスーツに白のブラウスと紺のネクタイの制服があったといいます。
男子と同じ角帽もあったのですが、それをかぶる人は少なかったといいます。
三淵嘉子さんによると、女性が法律を勉強していると聞くと変わり者扱いされ、怖いと言われたり、見知らぬ人達のうわさ話のもとになったりしていました。
女性解放に燃える女性や三淵嘉子さんのような女学校を出たばかりの女学生など、10代から40代までのバラエティーにとんだ年齢の層の学生がいて、他の女子専門学校にはない、厳しい大人のあ雰囲気があったといいます。
虎に翼でも、本当にバラエティーに富んだ学生が描かれていますが、実際もそうだったのですね。
入学当初50人いた同級生も、結婚等で退学する人が多く20人ほどに減っていたといいます。
法律を学ぼうという志を持って入学した学生達でも、途中で結婚を選んで退学する人も多かったのです。
1935年に女子部を卒業し、明治大学法学部に編入し1938年3月に卒業しました。
明治大学法学部に編入した女子部の学生達はいつも教室の前の方を陣取って授業を受けていて、授業の後も女子だけで行動していたそうです。
男女で口をく勇気はなかったのですが、三淵嘉子さんが優秀なことは皆知っていて、試験の時にはカンニングを迫られることもあったといいます。
しかし、前の席で熱心に勉強する女子学生達の成績は男子学生を上回っていて、女子学生の存在は男子学生の競争刺激剤という存在意義があったのかもしれません。
卒業式で総代となった三淵嘉子さんが優秀さを証明しているようです。
三淵嘉子が日本初の女性弁護士となった経緯
1938年11月、三淵嘉子さんと同級生の中田正子さんと1学年下の久米愛さんの女性3人が、高等文官試験司法科に合格しました。
女性初の快挙、女性弁護士誕生と伝える新聞には、写真とインタビューが載っていました。
三淵嘉子さんら3人のコメントは、男女差別が根強く残る時代の風潮に配慮して、謙虚に、女性のための弁護士、不幸な人々の相談相手とになるという点を強調しています。
日本初の女性弁護士になった三淵嘉子さんですが、実は当初から、自分は裁判官に向いていると思っていたのでした。
高等文官試験司法科の試験会場にあった裁判官募集の書類に『日本帝国の男子に限る』と書かれていたことに衝撃を受けたことを後に話しています。
日本の男女差別については、そのまま受け止めて特別怒ることもなく過ごしていましたが、裁判官がなぜ男子に限るのか、同じ試験を受けているのに、どうして女子はダメなのかという悔しい思いがこみ上げてきたといいます。
しかし、1941年に太平洋戦争に入ると、民事事件は大きく減少して、弁護士としての仕事はほとんど無くなったといいます。
そのため、三淵嘉子さんは、母校女子部法科の助手から助教授となって、後輩たちの指導を行っていました。
三淵嘉子が弁護士から裁判官となった理由
三淵嘉子さんは、1941年に父の書生をしていた和田芳夫さんと結婚し男の子が生まれましたが、夫は戦病死し1人で子供を育てる必要がありました。
官吏(公務員)は男性に限るという規定はなかったのに、戦前、女性はいませんでした。
司法省に採用願いは出したものの、裁判官としての採用はかなわなかったですが、門前払いされることはなくて、裁判官としての仕事を学ぶため司法省で勉強するよう勧められ、6月司法省民事部に入り、民法調査室で民法・家事審判法の立法作業、最高裁発足した後は事務局民事部第三課(家庭局)で親族法・相続法・家事審判所の問題などに携わっていました。
ドラマ虎に翼で、ヒロインの猪爪寅子が結婚した女性は無能力者となるという言葉にショックを受けたように、三淵嘉子さんは戦前の女性の地位の低い民法に悔しい思いをしていました。
しかし、戦後は努力もなく男女平等の民法が与えられたことは夢のようだったけれど戸惑っていたといいます。
あまりにも男女が平等で、女性にとっては厳しい自覚と責任が要求され、現実の日本女性がそれにこたえられるかと心配していました。
初の女性職員となった司法省では、やはり法律の仕事に携わる人達なので、差別されることなく教育してもらったと、三淵嘉子さんは振り返っています。
1947年11月には明治女子部教授に就任しました。
1949年6月に東京地裁民事部の判事補に任用され、女性裁判官としては2番目の採用でした。
当時、近藤完爾裁判長から、女性だからといって特別扱いはしないと言われ、男性と平等に扱われる喜びを感じたといいます。
1952年初の女性判事となりました。
男女が差別される時代に育ったため、建前論で平等を主張するより、実績を上げて、女性でも仕事ができることを示して社会を納得させることが大切という考えで、執務にあたっていたといいます。
1956年、東京地
判事となった三淵嘉子さんは、広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた原爆裁判を担当することになり、1963年判決は請求を棄却しましたが、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言しています。
三淵嘉子が家庭裁判所の母と呼ばれたのはなぜ?
1972年、初の女性裁判所長として、新潟家裁の裁判所となり、1979年に定年退官するまで家庭裁判所長を歴任しました。
横浜家裁の所長だった頃には、家庭に深刻な悩みをも持つ人の心を和ませたいという心遣いから、調停室の壁を明るい色に変えて、壁に絵をかけ、カーテンも新しくし、昼休みには廊下に静かな音楽を流すようにしました。
少年事件や家事事件について、一般の人達に関心を持ってもらいたいと、各地で講演を行っていまいした。
特に少年問題は家裁に送られる前に、家庭や社会が理解して協力することが大事だと考えたからです。
家裁は人間を取り扱い、事件を扱うところではないということ、家裁の裁判官は、社会に入って行く必要があるという信念を持っていまいした。
「女性裁判官は歓迎しない』と発言した最高裁人事局長にと直接対面して抗議をしたことがありました。
またその後、司法研修所事務局長と教官が「男が命をかける司法界に女が進出するのは許せない」と発言したことを聞いて激怒し、日弁連と衆議院の法務委員会にまで真相究明を申し入れたこともあったといいます。
これらの経験が、退官後の労働省男女平等問題専門家会議座長の仕事につながっていったのでしょう。
三淵嘉子退官後は何をした?
特に、労働省男女平等問題専門家会議座長として、男女雇用機会均等法の礎を築きました。
短期大学となった母校の創立50周年講演で、自分達が女子部で学んでいた頃は、法律を学ぶこと自体が白い目で見られることだったから、エリート意識を持つことはなかったと話しています。
自分に力をつけて人間らしく生きて行こうという気持ちで、地道に働いていていたといいます。
今でも後輩達には、エリート意識など持たず、どこにいても一人前の人間として自立して行くという伝統を受け継いでもらえればうれしいと言っています。
時代を切り拓いて、懸命な努力を重ねてきたの先駆者でありながら、自然体で、強くしなやかな生き様が感じられます。
1984年5月28日に69歳で亡くなり、6月23日に青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には2000人近い人が別れを惜しんだといいます。
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まとめ
三淵嘉子さんが弁護士になるまでと、その後の経歴についてまとめました。
- 三淵嘉子さんは、父の言葉から、法律を学ぶようになりました。
- 三淵嘉子さんは、女性が法律を学ぶことのできる唯一の学校、明治大学専門部女子部法科に入学、その後明治大学法学部に入学しました。
- 1938年11月、高等文官試験司法科の試験に合格し、1年半の修習期間を経て弁護士になりました。
- 戦後は司法省勤務経て裁判官となり、初の女性家庭裁判所長、5000人以上の少年少女と向き合うなどで、家庭裁判所の母と呼ばれることもありました。
- 退官後は弁護士として働き、数々の要職も務めましたが、特に労働省男女平等問題専門家会議座長として、男女雇用機会均等法の礎を築いたのでした。
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