【虎に翼】初代最高裁判所長官星朋彦のモデルは三淵忠彦さんです。
三淵忠彦さんの経歴等を調べました。
三淵忠彦さんはキリスト教徒であること、70歳で腫瘍により死去したことなどまとめています。
- 星朋彦のモデルは三淵忠彦!
- 三淵忠彦は初代最高裁判所長官
- 三淵忠彦はキリスト教徒!
- 三淵忠彦の経歴
- 三淵忠彦の父は元会津藩士
- 三淵忠彦70歳で死去死因は内蔵腫瘍
- 三淵忠彦長男の妻は三淵嘉子
これらについてみていきましょう。
星朋彦のモデルは三淵忠彦!
ドラマでは穂高教授の紹介で寅子を気に入り、著書の改定作業の手伝いを依頼する星朋彦ですが、実際の三淵忠彦さんも三淵嘉子さんに依頼しています。
三淵忠彦は初代最高裁判所長官!
戦後、新しい憲法のもとで作られた最高裁判所の初代長官となったのです。
45歳で裁判官を退官した後、弁護士として三井信託株式会社の法律顧問をしていた三淵忠彦さんの67歳5か月での就任は、現在でも最高齢です。
国民の権利を守る裁判所の基礎固めに尽力し、裁判官のあり方も示していました。
「天性、勝負事は嫌いで、裁判は人びとの争いを裁くため、私は法律家に適していない。ただ、公正を愛する心のみが、私を裁判所へつないでくれた」
会津人物伝 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin13.htm
あくまでも公正を追求する法律家でした。
三淵忠彦はキリスト教徒!
1950年3月3日に上智大学学長のホイヴェルス神父から洗礼を受けて、カトリックに入信したということです。
これは、キリスト教徒であった妻の静さんの影響と思われます。
三淵忠彦の経歴
- 生年月日:1880年3月3日
- 出生地:岡山
- 出身大学:京都帝国大学法科大学
- 1905年京都帝国大学卒業
- 1907年東京地方裁判所判事
- 1923年大審院判事
- 1924年東京控訴院上席部長
- 1925年退官し三井信託株式会社法律顧問
- 1925年慶応義塾大学兼任
- 1940年三井信託株式会社辞職
- 1942年慶応義塾大学講師辞職
- 1947年8月4日初代最高裁判所長官就任
- 1950年3月3日定年退官
- 1950年7月14日死去
生まれたのは岡山ということですが、荘内中学(山形県鶴岡市)旧制第二高校(宮城県仙台市)から東京帝大に入学しています。
父は官吏ということですから、その関係で引っ越しをしていたのかもしれません。
大学入学後に両親と弟を亡くし、学業を中断、大学を中退してしまいました。
しかし、再び京都帝国大学の法科に入学して、苦学しながら25歳で卒業しました。
京都帝国大学卒業後は、東京で石渡敏一の書生となったあと、司法官試補となりました。
45歳で裁判官をやめて企業の法律顧問となったことについて、長男の三淵乾太郎さんは、経済的な理由があったのではないかと、後に話しています。
裁判官の報酬は低かったからといいます。
三淵忠彦の父は元会津藩士
会津若松商工会議所青年部
三淵忠彦さんは、元会津藩士三淵隆衡(たかひら)の長男として生まれました。
兄は会津藩の家老萱野権兵衛で、戊辰戦争の責任をとって切腹しています。
家名が断絶されて三淵姓となりました。
三淵忠彦さんの二男千代田生命社長となった萱野章次郎さんは、福島の萱野家を継いで家を再興しています。
三淵忠彦70歳で死去死因は内蔵腫瘍
三淵忠彦さんの腫瘍は、回盲部腫瘍という、大腸がんの一つである悪性腫瘍です。
退官翌日に洗礼を受けてキリスト教徒となった三淵忠彦さんですが、墓所は、小田原市霊寿院です。
三淵忠彦の長男の妻は三淵嘉子
毎日新聞
三淵乾太郎さんの前妻は、一男三女を残して病死していました。
三淵乾太郎さんと三淵嘉子さんが初めて会ったのは、三淵忠彦さんが亡くなった時にアメリカ視察中だった三淵嘉子さんが、帰国後に自宅に弔問に行った時だということです。
しかし、この時は三淵乾太郎さんの妻は健在でしたし、特に何もありませんでした。
知人のすすめによって再婚にいたったということですが、その知人はドラマのライアンのモデル内藤頼博さんだったのではないかと言われています。
三淵忠彦さんの妻・静さんが三淵嘉子さんを気にっていたということでした。
静さんも、4人の子供がいた三淵忠彦さんと再婚しているので、三淵嘉子さんの気持ちはよくわかったのではないでしょうか。
三淵乾太郎さんと三淵嘉子さんが結婚した時は、すでに亡くなっていた三淵忠彦さんですが、2人を結び付けたのは三淵忠彦さんでした。
三淵乾太郎さんについて詳しくはこちら
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まとめ
【虎に翼】星明彦のモデル・三淵忠彦、キリスト教徒で70歳で腫瘍により死去したことなど経歴を調べました。
- 星朋彦のモデルは三淵忠彦です。
- 三淵忠彦は戦後、新憲法のもとにできた最高裁判所の初代長官でした。
- 三淵忠彦は、70歳で最高裁判所長官を退官した後に洗礼を受けてキリスト教徒になりました。
- 三淵忠彦の父は元会津藩士で、切腹した元家老は伯父にあたります。
- 三淵忠彦70歳で内蔵腫瘍で死去しています。
- 三淵忠彦の長男三淵貫太郎の妻は寅子のモデル三淵嘉子さんです。
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