この記事は、この先のネタバレを含んでいます。
【虎に翼】寅子の夫となった優三のモデルは、三淵嘉子さんの夫の和田芳夫さんです。
戦死したという和田芳夫さんがどんな人だったのか、なれそめ等調べました。
この記事で分かること
- 佐田優三のモデルは和田芳夫
- 和田芳夫はどんな人?
- 三淵嘉子と和田芳夫のなれそめ
- 和田芳夫は戦死
- 佐田優三と和田芳夫の違い
これらについてみていきましょう。
目次
優三のモデルは和田芳夫
【虎に翼】のモデル三淵嘉子さんの夫・和田芳夫さんが、優三のモデルです。
和田芳夫はどんな人?
和田芳夫さんは、優三と同じように、三淵嘉子さんの実家武藤家の書生でした。
武藤家では、三淵嘉子さんの両親の故郷・香川県丸亀から上京した若者たちを書生として住まわせていました。
和田芳夫さんは、父武藤貞雄さんの友人の親戚です。
明治大学の夜間部に通い、卒業後は東洋モスリンという紡織会社で働いていました。
優三のように気心の知れた人物だったことは確かのようです。
努力家で、とても優しく、三淵嘉子さんのまわりいた人の中で最も性格の良い人だったといいます。
寡黙で思慮深く、慎重な性格で、三淵嘉子さんとは正反対だと言われます。
気が弱そうに見えていましたが、相性はぴったりだったのでしょう。
三淵嘉子と和田芳夫のなれそめ
きっかけは、父が誰か気になる人はいないか?と聞き、三淵嘉子さんが和田芳夫さんの名前を言ったことでした。
ドラマでは優三が寅子を思い続けていましたが、実際は三淵嘉子さんの方が和田芳夫さんを思っていたようです。
目標を成し遂げるまでは、恋愛も結婚も考えず封印していたという三淵嘉子さんです。
結婚適齢期は23歳といわれた時代、弁護士研修を終えた時には26歳になっていました。
周囲の人たちは縁談を探し始めましたが、なかなか見つかりません。
法律を勉強しているような女性は怖いと言われたり、戦争で招集される男性が多くなっていた時代ですから、無理もなかったのです。
身近なところで妥協したというわけではなく、三淵嘉子さんの両親も、和田芳夫さんを気に入っていたようです。
しかし、当時のお見合い結婚のように、すぐに結婚というわけはなかったようです。
三淵嘉子さんが友人に、なかなか結婚しようと言ってくれないと愚痴っていたという話がありました。
恋愛期間を経ての結婚だったのでしょう。
きっかけは三淵嘉子さんでしたが、和田芳夫さんも三淵嘉子さんをずっと思っていたのかもしれません。
和田芳夫は戦死
和田芳夫さんは、上海からの引き上げ途中、長崎の病院で亡くなり、家族と会うことはできませんでした。
和田芳夫さんは、肋膜炎を患わったことがあって、徴兵を免れていたのですが、戦況が悪化し、不適格とされた人達も戦場に送られるようになっていました。
1944年6月に召集令状が届いた時には肋膜炎の病根が見つかりすぐに戻されましたが、ついに1945年1月、和田芳夫さんは招集されます。
和田芳夫さんは戦地で発病したため、病院船で帰国します。
最初は軽傷で重病の人に付き添っていたのに、船内で悪化し、長崎の陸軍病院に入院しました。
3月10日に東京大空襲があり、危険を感じた三淵嘉子さんは、1943年1月1日に生まれた長男の芳武さん、戦死した弟の妻と子供とともに福島県坂下町に疎開していました。
疎開先にいたために、三淵嘉子さんには連絡がありませんでした。
実家に電報が届いたのは危篤の知らせでしたが、三淵嘉子さんが会うことはかないませんでした。
優三と和田芳夫の違い
【虎に翼】の優三と、和田芳夫さんとの違いを見ていきましょう。
社会的地位を得るための結婚ではなかった
三淵嘉子さんは、社会的地位を得るために結婚しようとは思っていなかったようです。
1941年の8月の法律新報の法律伝書箱というコーナーに三淵嘉子(当時武藤嘉子)さんのインタビューが掲載されています。
当時は、特に女性からの法律相談も多く、忙しくしていたようです。
結婚ついての質問には、考えたこともないと答え、今までチャンスがなかっただけとも話しています。
和田芳夫さんとの結婚3か月前なので、実際には話が進んでいた頃と考えられます。
結婚に対して、特に構えていたわけはないような様子がわかるインタビューです。
片思いしていたわけではなかった
ドラマでは、優三がずっと寅子に片思いしていたことが明らかになりましたが、実際にはそうではありませんでした。
気になる人はいないかというと父に質問に、三淵嘉子さんが和田芳夫さんの名前を挙げたことで、お付き合いが始まったようです。
物静かだったという和田芳夫さんなので、実はずっと思っていた可能性もあるかもしれませんね。
高等試験を受けていない
和田芳夫さんは、優三と同じく明治大学の夜学に通っていましたが、法律家を目指して高等文官試験法科試験を受けてはいませんでした。
何学部に通っていたのかはわかりませんが、東洋モスリンという紡織会社に就職しています。
胃腸が弱くなかった
優三は、緊張するとお腹が痛くなっていましたが、和田芳夫さんにそんな話はありません。
しかし、肋膜炎を患ったことがあって、体が弱かったようです。
肋膜炎は、現在は胸膜炎と呼ばれ、原因の一つに結核菌があります。
子どもは男の子
ドラマでは女の子が生まれますが、実際には男の子でした。
和田芳夫さんの芳と、三淵嘉子さんの実家の苗字武藤の武から、芳武と名付けました。
長男芳武さんは、細菌学者になったということです。
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まとめ
【虎に翼】優三のモデルは、三淵嘉子の夫和田芳夫で、は戦死していました。
- 優三のモデルは、三淵嘉子さんの夫で、実家の書生だった和田芳夫さんです。
- 明治大学の夜学を卒業して紡績会社の就職しました。
- 肋膜炎を患ったことがあって招集は免れていましたが、戦況が悪化し、召集されました。
- 戦地で発病し病院船で帰国しましたが、船内で悪化し、長崎の陸軍病院で亡くなりました。
- 福島に疎開していた三淵嘉子さんに連絡は届かず、会うことはできませんでした。
- 優三と和田芳夫さんとの大きな違いは、高等試験を受けていなったこと、三淵嘉子さんに片思いしていなっかったこと、社会的地位のための結婚ではなったこと、子どもは男の子だったことです。
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