新しいスタートを切った寅子が深くかかわっていくのが沢村一樹さん演じる久藤頼安、通称ライアンにはモデルがいます。
殿様判事といわれる、内藤頼博です。
民主的な司法制度の実現に携わり、家庭裁判所の発足に尽力しています。
どんな人物なのか調べました。
- ライアン(久藤頼安)のモデルは内藤頼博
- 内藤頼博の経歴
- 殿様判事と言われた理由
- ドラマのライアンとの違いは?
- 内藤頼博は何をしたのか?
- 戦前にアメリカの家庭裁判所視察
- 新宿御苑が家だった!!
これらについてみていきましょう。
ライアン(久藤頼安)のモデルは内藤頼博
民法調査室主任、沢村一樹さん演じるライアンこと久藤頼安(くどうよりやす)のモデルは、内藤頼博(ないとうよりひろ)さんで、ライハクと呼ばれていたそうです。
寅子は、裁判官にはなれなかったものの、ライアンに気に入られて民法調査室で働くことになったのです。
ユニークで明るいライアンに振り回されながらも、また一歩、法の世界に進んでいくことになります。
そんなライアンのモデル内藤頼博さんがどんな人だったのか、みていきましょう。
内藤頼博の経歴
- 名前:内藤頼博(ないとうよりひろ)通称ライハク
- 生年月日:1903年3月12日
- 出身地:東京市四谷内藤町生まれ
- 出身校:学習院から東京帝国大学法学部
- 1930年高等文官試験司法科合格/東京帝国大学法学部卒業
- 1932年東京地方裁判所予備判事
- 東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官
- 1973年退官
- 2000年92歳で死去
第一次世界大戦やロシア革命があり、日本は高度成長を遂げ、大正デモクラシー、共産主義の思想も広がる時代に少年期を過ごしています。
大学在学中に高等文官試験司法科に合格しました。
内藤頼博さんがなぜ裁判官を目指したのかはわかっていませんが、素晴らしく優秀であり、官僚や政治家にもなれる素質があったといいます。
芸能界の知り合いも多く、家庭裁判所ができた時のポスターには女優の水谷八重子さんを登場させ、内藤頼博さん自身が撮影したということです。
裁判所を退官後、弁護士をしながら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めました。
殿様判事と言われた理由
旧信州高遠藩内藤家当主で、身長が170㎝あり、当時としては大柄だったこと、貴族のような見かけもあって、殿様判事と呼ばれていました。
生まれたのが内藤町というのは、内藤家からつけられた町名です。
戊辰戦争で官軍につき、華族の子爵家となりました。
多くの不動産を持っていた内藤家なので、生活に困ることはなく、内藤頼博さんの父は生涯仕事を持つことがなかったといいます。
内藤頼博さんは、鼻の高い美男子で、相当モテたということですが、お酒は飲めなかったそうです。
ドラマのライアンとの違いは?
ライアンと呼ばれるドラマの久藤頼安と同じように、内藤頼博さんはライハクと呼ばれていましたが、ライアンが外国人ぽいのと違って、ライハクは漢字を音読みにした、日本人的です。
伊藤博文をイトウハクブンと呼んだりする風習があって、その一つのように感じます。
寅子を佐田だからサディー、小橋をハッシーと呼んだり、ちょっと大げさな身振り手振りなど、日本人離れしたイメージは、ドラマオリジナルと思われます。
内藤頼博さんが民法改正の審議会に入っていたという記録は見つけられ、寅子のモデル三淵嘉子さんが民法調査室に所属していたことも確かです。
ドラマのような役職が内藤頼博さんだったかどうかはわかりませんでした。
ドラマでライアンとともに寅子は民法の親族編と相続編の法改正の仕事をしていて、実際と同じ過程が描かれ、民法改正の流れがドラマのようであったというのは確かなようです。
実際には、三淵嘉子さんは、人事課長石田和外が引き合わせた坂野千里控訴院長に、裁判官の勉強のために司法省で働くことを勧められています。
この役割もドラマではライアンになっていますね。
内藤頼博は何をしたのか?
内藤頼博さんの業績としては、何があるのでしょうか。
司法制度を変えた
内藤頼博さんは、戦前には司法官(裁判官・検察官)と弁護士を別に修習していた制度を改めて、同時に修習するという、民主的な司法制度の実現に携わっています。
裁判所法の起草に携わり、給費制度を設けるなど、現代の司法制度のもとになっています。
確かに、【虎に翼】で、高等試験司法科合格後の修習が、裁判官と弁護士では違っているようでした。
また、法廷で、裁判官と検察官が隣で高い位置にいて、弁護士だけが下にいることに違和感がありましたが、同じ理由なのかもしれないですね。
戦前にアメリカの家庭裁判所視察
日米開戦直前に、内藤頼博さんはニューヨークの家庭裁判所を褒める記事を法律新報に掲載しています。
すでにアメリカに対する敵対意識が高まりつつある中でも、よいものはよいと言う、勇気があり、正義感の強い人なのでしょう。
裁判所なのに明るくて入りやすいことや、医務室や職業相談、女性が働いていて、とても丁寧に対応していることに感動して、これが司法のあるべき姿だと思ったのでした。
この経験が日本の家庭裁判所の設立に生きています。
新宿御苑が家だった!!
高遠藩主内藤家の江戸屋敷の敷地が、皇室御料となり新宿御苑となっているので、昔のままなら内藤頼博さんの家が新宿御苑ということになります。
近くには内藤新宿という甲州街道最初の宿場町があって、安藤広重の浮世絵「名所江戸百景」に、大きな馬と宿場町が描かれた「四ツ谷内藤新宿」という版画があります。
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まとめ
【虎に翼】ライアン(久藤頼安)のモデル・司法制度を変えたと言われる内藤頼博さんについて調べました。
- ライアン(久藤頼安)のモデルは、通称ライハクと呼ばれた内藤頼博さんです。
- 学習院から東京帝大法学部卒業し、在学中に高等文官試験司法科に合格しました。
- 信州高頭藩当主で、見た目もあって、殿様判事と呼ばれていました。
- ドラマのライアンほど、アメリカっぽくはなかったようです。
- モデルの三淵さんを司法省に誘ってはいませんが、戦後民法の改正に携わっていたのは確かです。
- 裁判官・検察官・弁護士の修習を同時に行い、給費制度を設けるなど、現代の司法制度のもとになる裁判所法を起草しています。
- 日米開戦直前にアメリカの家庭裁判所を視察し、それが戦後、日本の家庭裁判所発足に役立ちました。
- 新宿御苑は、もともと内藤家の江戸屋敷でした。
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