この記事は、今後のネタバレを含んでいます。
【虎に翼】ヒロイン寅子の夫優三は戦死してしまいます。
優しい理想の夫優三の死は、視聴者に優三ロスをもたらすこと間違いなしです。
戦争の中、寅子のお守りを託して息を引き取った様子など、優三の戦死ついて徹底解説します。
- 寅子の夫優三は戦死!
- 優三は戦争中病気になった
- 優三は病室で息を引き取った
- 寅子が優三の戦死を知らなかった理由
- 寅子の父が優三の戦死を隠していた理由
- 優三の戦死を隠した父の謝罪
- 寅子の父親が他界について
- モデル三淵嘉子さんの夫の戦死との違い
これらをみていきましょう。
寅子の夫優三は戦死!
死線を超える五銭硬貨と、苦戦に勝つ十銭硬貨を縫い付けた寅子のお守りを持って行ったのに、寅子と娘優未のもとに帰ってくることはありませんでした。
優三は戦争中病気になった
優三は、戦争に行って亡くなったから戦死ということにはなりますが、戦闘で亡くなったわけではなくて、病気になったようです。
1945年8月15日に戦争は終わりましたが、優三が戦死したのは1946年5月23日と通知書に書かれていました。
日本に帰るまで、収容所にいて病気になったのか、収容所に行く前から病気だったのかはわかりませんが、優三は収容所の病室にいたのでした。
優三は病室で息を引き取った
それを伝えに来てくれたのが、優三と隣のベッドだったという小笠原です。
小笠原の病状が悪化した時に、とてつもないご利益があるから絶対に助かると言って、寅子の作ったお守りを小笠原に握らせました。
そのおかげか小笠原は持ち直しましたが、優三は悪化して亡くなり、小笠原は申し訳ない思いでいっぱいでした。
短い時間だったけど、優三はとてもやさしかったと、ボロボロになって薄汚れてしまったお守りを持ってきてくれました。
本当は遺骨を持ち帰りたかったといいますが、それはかなわなかったのです。
本当に優三らしいと思う最後で、そんな優しい優三だったから、小笠原はお守りを届けに来てくれたのでしょう。
戦死したという通知は来ても、本当はまだ生きていて、帰れずにどこかにいるのでないかという、かすかな希望もなくなってしまいました。
もともと胃腸の弱かった優三だから、戦争中大変な思いをしていたのかもしれないとも思う寅子でした。
寅子が優三の戦死を知らなかった理由
優三が戦死したのは、1946年5月でしたが、寅子が優三の戦死を知ったのは秋以降です。
それは、父の直言が隠していたからです。
寅子の父が優三の戦死を隠していた理由
寅子の父直言が優三の戦死通知隠したのは、優三の戦死の通知を受け取って、寅子が優三の戦死を知りショックで倒れたら、家がダメになってしまうと思ったからでした。
父直言が倒れる時に写真たてに異常なほどの勢いで触るなというので、かえって気になって見ると、裏板が外れて、紙が挟まっていることに気がつきます。
それが優三の戦死を伝える通知でした。
兄の直道が戦死し、直言の工場もうまくいかない中、頼りになるのは寅子だと感じていて、とっさに隠してしまいました。
優三の戦死を隠した父の謝罪
隠していた優三の戦死通知が見つかっても、そのことを話すのはすぐではありませんでした。
花江の怒りの言葉で、やっと口を開きます。
号泣して、すごい勢いで謝りました。
つい隠してしまったのは、寅子が、わが家がダメになってしまうからで、時間が経つほど話しづらくなっていったといいます。
寅子の仕事が決まってからと思ったけれど、なかなか決まらなくて‥というと、寅子のせいにしていると花江が怒りました。
寅子の父親が他界について
直言は栄養失調と肺炎ですっかり弱っていて、倒れてからの1か月でどんどん衰弱していきました。
最初に口にしたのは花江のことでした。
直道が亡くなっても花江は猪爪家の人間でいられるのか、ということでした。
直言にも強く怒ったりする花江ですが、もう、すっかり家族の一員ということですね。
でも、もしこの先よい人が現れたらその人と幸せになって欲しいともいう、優しいお父さんです。
優三の戦死通知を隠していたことを謝った後に、話が止まらなくなりました。
寅子がしあわせならいいけど、本当は花岡がいいと思っていたと、とんでもないことを言いだしました。
かわいい孫にも会わせてくれた優三に感謝しているけれど、花岡なら寅子は確実に幸せになるし、周りに自慢できるし、老後も安泰だと言って、言い過ぎたことに気がつきます。
話すべきじゃない話がどんどん出てきます。
共亜事件の時の寅子がしつこかったとか、はるが怖くて残業と嘘ついて飲みに行ったと等々、うちの家族は女が強いから直道とこっそり寿司を食べてごめんとか、次々です。
一生分の懺悔をするつもりかという寅子に、苦労ばかり掛けて役立たずでダメでろくでもなくて申し訳なくて死んでも死にきれないと、こんなお父さんでごめんと言います。
寅子は何度ごめんと言われても、優三の戦死通知を隠していたことは許せないと思うのでした。
でも、寅子はそれ以上に、父だけが女子部に行くことを賛成してくれたことを思い出していました。
寅子が、誰の前でも寅子はすごい、かわいいと言ってくれたというと、寅子は自分の誇りで宝物だといいます。
そこまで言うと満足したように、スッキリして深い眠りにつきましたが、数日後に亡くなったのでした。
モデル三淵嘉子さんの夫の戦死との違い
ドラマの優三と違って、和田芳夫さんは体が弱く、肋膜炎をわずったこともあって、召集を免れていました。
戦況が悪化したためか。ついに戦争に行くことになりました。
和田芳夫さんは戦地で発病して、戦争に出ることはなかったと言います。
優三と違って、病院船に乗って帰国はしたものの、長崎の陸軍病院で1946年5月に亡くなりました。
優三と同じように最初は軽くて重病の人に付き添っていたのに、船内で悪化してしまったといいます。
お守りの話はオリジナルストーリーのようですね。
当時の三淵嘉子さんは、母校の明治大学で教えていましたが連絡はなくて、夫和田芳夫さんに会うことはできませんでした。
しかし、遺骨は戻ってきて、故郷香川県丸亀市の和田家のお墓に納められています。
三淵嘉子さんの遺骨は、遺言により、和田家のお墓にも分骨されています。
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まとめ
【虎に翼】優三の戦死、戦争で寅子のお守りをたくして息を引き取った話等を徹底解説しました。
- 寅子の夫優三は戦死してしまいます。
- 優三は戦争に行ってから病気になり、復員を待つ収容所の病室にいました。
- 優三は、収容所の病室で息を引き取りましたが、その時一緒だった小笠原が寅子の作ったお守りを届けに来てくれました。
- 重症だった小笠原に、このお守りはきくからとお守りを渡したのに、優三はその後悪化してしまったということです。
- 優三の戦死の通知を父直言が隠してしまったため、寅子は1年以上優三の死を知りませんでした。
- 優三の死を知ったら、寅子が壊れて、家もダメになってしまうと思ったから隠したという父でした。
- 父が倒れる時に一緒に落ちた写真立ての裏板に隠していた戦死通知を寅子が見つけました。
- 父は、隠していたことを謝りながら、これまでのいろいろの謝罪をしゃべりつくして安心して眠り、数日後亡くなりました。
- モデル三淵嘉子さんの夫はもともと体が弱く招集は免れていましたが、戦況が悪くなり出征し、戦地で病気になり病院船で帰国しますが長崎の陸軍病院で亡くなり、家族と会うことはできませんでした。
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